ニャヌュパ・ガイモ・ガイモ

ンドペソド・ンゴイ・ンゴイ

darling

昨年の歌番組で西野カナの“Darling”を聴く機会が結構あった。若い歌手にしては歌が上手いのと隣県出身ということもあって、以前から少しだけ好感を抱いていた。だけど、若い女性向けの音楽はおじさんにとってちょっと眩しすぎて、聴くに堪えない。なんてったって会いたくて震えている歌詞の歌ばかり歌っていた彼女である。震えるのは小便した後と馬券を外したときだけのおじさんとは生きている世界が違う。しかし、アコースティックな曲調に惹かれ、ラジオや歌番組で流れる“darling”を聴いているうちに、この歌はすげえ、と思うことになった。

http://m.youtube.com/watch?v=sawxwunW7G0

歌詞の内容は、一見いたって普通のラブソングにみえる。
理想とはかけ離れただらしない恋人に対して、何故あなたを好きになってしまったのか、また反対に、あなたは何故私なんかを好きになったのか、きっとお互い変わり者なんだね、仲良くしていこうよ、と投げかける、といったもの。
しかし、この歌詞こそが10代〜20代前半の女性にとって西野カナを唯一無二のものにしていると思う。

“Darling” 歌詞

『若い』女の子にとって、いや男にとっても、世界とはとても狭いものだと思う。僕だっておじさんと自称しているもののまだ今年三十路。大した人生経験はないけれど、自分の知りうる世界が狭いものだということくらいは知っている。だけど、『若い』ということはそれすらも知らないことだと思う。彼女らにとって、ついこの間までは自身を取り囲むのは家族や気の合う友人ばかりだったはずだ。しかし、自身にも、身の回りの人間にも恋人ができ始めて、ちょうど自分とは違う価値観を持った人間に触れ合う時期がやってくる。そんなとき、まるで彼女らは異星人にでも逢ったかのような、そんな気持ちになるんではないだろうか。


そんなとき、西野カナの歌のターゲットになるような若い女の子達はどうするんだろうか。きっと、「話す」んだと思う。友人とお話して、例えば恋人とのエピソードや、ちょっと変なところを話し合う。
“Darling”はきっと西野カナ自身のこのあたりの体験を基にして作詞されたんじゃないだろうか。
きっと“Darling”を聴いた若い女の子は、自身か、身の回りの誰かの恋人のことを思い起こす。



ここで注目したいのが、“Darling”の歌詞は『誰にでも当てはまるのに、そう思わせない』力があるというところである。序盤の歌詞を一度読んでみてほしい。

>ねぇ Darling ねぇ Darling
>またテレビつけたままで
>スヤスヤどんな夢見てるの?
>ねぇ Darling また脱ぎっぱなし
>靴下も裏返しで
>もー、誰が片づけるの?

よくよく考えれば解ることだけど、こんな男はどこにでもいるし、こんな男を好きになる女もどこにだっている。引用はしないけれど、後に続く歌詞にしたってそうだ。女性の身支度に付き合うのを億劫に感じる男は少なくないし、憧れの女優に似ていない女性と付き合うのは多数派で、むしろ当たり前のことだ。しかし、新しい価値観に触れ始めた若い女性達にとってはそうではない。脱ぎっぱなしの服や靴下を見て、幻滅したことのある女の子もいるかもしれない。経験を重ねるうちに、その程度のことはよくあることなのだと解るんだけど、自分とは違う価値観に触れること自体に慣れていない者にとってこれは、自分や友人の恋人と重ね合わせることの出来る『共感できる』特別な歌詞となる。当たり前のことを書きながら、ターゲットの層にとっては特別なものになっているのだ。

最大公約数の歌詞をもって多くの人に共感を覚えさせることは、ポップミュージックの一つの使命である。しかし、あまりにも薄くなった詞では人々を感動させることは難しい。だからこそ、最大公約数の歌詞でありながら、聴き手が特別な共感を覚えることを目指している“Darling”はとても珍しいものなのではないかと思う。いや、もしかして僕が気づいていなかっただけで、湘南の風みたいなのも、ターゲットの層に対してはそういう曲だったのかもしれない。僕には大貧民で負けてマジギレした友人はいないから解らないけれど。