ニャヌュパ・ガイモ・ガイモ

ンドペソド・ンゴイ・ンゴイ

グランパズドリーム

 37歳になった。長女は7歳、二女は5歳になった。

 

 昔を思い出すことが少なくなった。
 育児とか、仕事とか、現実の忙しさに飲み込まれていて、逍遥する時間すら無いからかもしれないし、そういう年齢なのかもしれない。若い頃、何者かになろうとしていた気がするけど、そんなことも忘れてしまった。いや、多分、何者かになろうとだけしていたけど、その何かが結局決められないまま年齢だけを重ねてきたんだろう。

 

 30代も後半になると、組織の中での評価も固まってくる。自身の行く末も大体想像がつくようになってくるし、自身の行った末のような上司を毎日見ている。皆、真面目で、懸命に仕事に取り組んでいる人達ばかりだ。評価されてもそれほど手取りに反映されない組織だけど、それでも皆、知性と努力を社会に還元している。私はそういう人間が好きだし、その人達の存在は一つの救いでもある。
 人生を変えようと、転職する人はいるし、実際に身近にもたくさんいるけれど、私にはその決心をするだけの度胸は無かった。転職してチャレンジするだけやりたいこともないし、それだけの情熱を傾けられる物事自体が私には無かった。それでも、目の前の仕事を精一杯やって、それが自身にとってのやりがいにもなっているし、社会貢献になっていることは誇らしく思っている。楽しい仕事ばかりではないけど、充実はしている。

 

 妻の努力もあって、子供はそれなりに私になついてくれていて、いつもにこにこしている。それに勉強が好きらしく、毎日漢字の書き取りと日本の歴史の勉強をしている。理系教育をしたかったし、世界史も教えたかったけれど、こればっかりは本人の興味関心なので仕方がない。日本史を勉強すればするほど、必然的に世界史にも興味を抱かざるを得ないはずだ、と、図書館で借りてきた世界史の学研漫画をこっそりと本棚に忍ばせた。

 

 2年前くらいから、コーヒーに嵌まり、色々と豆を買ってきて楽しんでいる。豆の重さを計り、電動ミルを豆を挽き、ドリップするまでの所作が、儀式めいていて、そういうところが好きなのかもしれない。もしかしたら、茶道とか書道とかの「~道」に通底する部分かもしれないし、そうじゃないかもしれない。1円/gくらいの豆から始めたのが、今では5円/gくらいのを買わないと満足できなくなっていて、少々歯止めが利かなくなってきている。自制しなければと思いながら、色々と欲しくなってしまう。

 

 何も不安が無くて、仕事も家庭もそれなりに上手くいっている。若いころのように見栄を張る必要もなくなった。もしかしたら、人生で最も充実していて、楽しい時期なのかもしれない。何も不満は無いけれど、何らかのゲームチェンジももう無いんだろう。あとはもう、幸せに過ごすだけ。

サードステージ

 私の一番古い記憶は三歳の頃で、祖母の家で自身の誕生日祝いをしてもらっている場面だ。その頃の父は三十五歳で、ちょうど今の自分と同じ年齢だった。

 記憶の中にある父の姿に今の自分を重ねると、自分のことをとても幼く感じる。子供の私にとって、父は巨大な異物だったし、初めから既に「父」で「大人」だった。だからとても、「父」で「大人」になる前のその人のことは想像出来なかった。同じように、母は初めからずっと母だし、祖父母はずっと祖父母だった。でも、三十五歳の今の自分自身は三歳の頃の自分を縦に引き伸ばした物でしかなくて、いつまで経っても、その役に成り切れないでいる。父にも大人にも。

 

 

 私は父のことが嫌いだった。

 私はママっ子でいつも母にくっついていたし、父は父であまり子煩悩というわけでもなかった。記憶の中で父は、横臥してマールボロを吹かし、つまらない野球中継ばかりを見ていた。パチンコで散財して、沢山残業して、家の中でうるさくするとすぐに怒った。思い出すのはそんな、嫌な記憶ばかりだ。煙草の煙が充満する居間が嫌いで、いつも他の部屋に逃げていた。煙草も巨人もパチンコも大嫌いだった。観ている途中のアニメが、帰ってきた父によって巨人戦に切り替えられてしまうくらいなら、もっと遅く帰ってきてくれて構わないと思っていた。父に愛されていると思えたことは無かった。

 

 

 三歳になった二女にせがまれて、彼女の両脇に手を差し込んで抱き上げる。随分と成長したものだと感心する。同じ人間とは思えないくらいか細く産まれてきたのに、今や片腕では支えきれないくらいに大きくなり、一人前に喋るようになった。もう半年もすると、さらに人らしく喋るようになる。三歳の頃の私にとっての父が、この娘にとっての私であった。

 父のようになりたくなくて、父に反抗するかのように子供に愛を示しているつもりだった。だか、端々で父に似てくる自分に気付く。長女と二女を公園に連れ出し、遊具で遊ばせていても、素直に楽しめない自分がいる。子供にバレエを習わせても、あまり興味が持てない。家事に時間を取られているときに子供が言うことを聞かないと苛立ってしまう。

 

体も、頬の弛みも、疲れも、焦燥も、自尊心の高さも、みんな似てしまった。出口はまだ見えない。きっと誰もがそうなんだと、自分に言い聞かせる。父も同じようなことを考えていただろうかと、想像してみる。

エンパイアメーカー

 友人だった奴が情報商材屋になった。

 

 彼と出会ったのは大学生の頃で、だけどどんなふうに仲良くなったのかはすっかり忘れてしまった。すれ違えばそれなりに会話をしたし、他の友人と一緒に家で酒を飲んだりもした。就職した後、彼の結婚式の二次会に出席してそれきりだったので、まあそれが縁の切れ目だったんだろう。もう目にすることはないと思っていた。

 

 とても優秀で、要領が良く、そして面白い奴だった。どんな仕事をやらせても多分それなりにこなせてしまう地頭の良さと機転があった。ただ、いつも誰かに対して支配的であろうしていて、大学生の頃はいつも数名の手下みたいなのがくっついていた。手下にならなかった同期をひたすらにおちょくったり、先輩や教官にさえそんな態度を取ることもあった。

 ただ、学生時代の彼の傍若無人な振る舞いは、それ自体が彼の魅力の1つとなっていたし、傍観者はそれを許していた。私もその1人だったと思う。

 

 二度と目にすることはないだろうと思っていた彼をインターネット上で目にしたのは2年前で、まだいわゆる狭義の情報商材屋になる前だった。とある商売をして、さらにそれについてのコンサルティングをしていた。彼は優秀な人間だから、それなりに稼いでいたんだろう。久しぶりに彼に会ったという友人から聞いた話では、羽振りは良さそうだった。

 それから2年の間に、狭い界隈で彼はあっという間に有名になった。そして、狭い意味での情報商材屋になった。

 コンテンツを高額で売り、商材の値段を釣り上げたり、落としたり、twitterを炎上させたり、インフルエンサーと対談していた。大学生の頃みたいに手下を増やして、また、傍若無人に振る舞っていた。少なくとも限られたコミュニティの中で彼は一大ムーブメントを起こしていたし、多分、彼自身もそれを感じていた。

 しかし、彼はそのあと、情報商材屋として致命的なミスを犯してしまった。それが原因で、元々彼の魅力でもあり重大な欠点でもあった、支配的で横暴であるところが取り沙汰され、一時のブームが嘘だったみたいに、そのとき周りにいた人がいなくなった。

 私はそこに至るまでを、友人としてではなく、一ネットウォッチャーとして傍観していたような気がする。他人事で、それでいてつまらない事件だった。

 

 私自身、情報商材に悪い印象はあるものの、それを理屈で説明するのはとても難しいことのように思う。広い意味で言えば情報を何らかの形で売れば情報商材だし、ビジネス本もnoteもオンラインサロンも大差ないように思う。毒にも薬にもならないような本はいくらでもある。ただ、彼の売っていたものは、現代を上手いこと攻略する方法であって、知性ではなかった。理屈ではない理屈だけど、それが私にとっての線引きになっている。

 

 人生は知的であるべきで、そこには美しさと道理が不可欠だと思う。ただ、『人生とは』は人それぞれだろうし、正しく生きようとしていても、精神が病む程の仕打ちを受ければ、折れてしまうこともある。自身に対して正しくあろうとするけれど、常にそうであるとは言い切れないし、ごまかして、後悔しながら生きている気がする。

 だからこそ、端から道理を捨てた振る舞いに対してこんな感情を抱くんだろう。

リヤン・ド・ファミユ

 長女は4歳に、二女は2歳になった。

 

 

 子供には魔力があるみたいで、大人は誰でも子供の前では良き大人であろうとする。信号を守り、箸を正しく持ち、トイレを出たら手を洗う。子供達が当たり前のことを当たり前に為すことが出来るよう、周りの大人が正しく振る舞おうとすることは素晴らしいことだと思う。

 そして、子供達が寝た後に、夫婦2人で「正しくない振る舞い」をするのも凄く楽しい。大人が寝る前なのに菓子を食べたり、夜ふかしをしたりすることを子供達は知らない。親でいることは楽しいけれど、親の役割を脱ぎ捨てて不道徳に耽ることもまた楽しい。

 無論、そんなメルヘンなことばかりではなくて、大人は喧嘩をするし、不寛容で、理不尽だって言う。歯を磨かなかったり、順番を守らなかったりする。だけど、子供の前に立つと、あたかも道徳的で、教育的であろうとする。それが大人の役割だから。彼女達の親が、彼女達が思っているよりも完璧ではないことに、いつか彼女達も気付くのだろうけど、それがいつになるのかは分からない。私は、私の親が、私の親である以外の姿を知らない。

 

 

 「家族」とはなんなのだろうか。

 ジュンパ・ラヒリの「低地」、「その名にちなんで」を読んだ。彼女の小説を読んで、「家族」とは「暮らし」なのだろうと思った。食事を共にすることは家族の振る舞い足り得るし、一緒に食事をしないことですら、それが規範になってしまえば家族の振る舞いになり得ると思う。

 1つ、私見を加えるならば、私は「家族」とは「役割を演じること」だと思う。親としての役割を演じ、子供としての役割を演じることが家族なのだと思う。友人と酒を飲んでいるとき、職場で仕事をしているときとは明らかに違う自分がそこにいる。妻との共犯関係のもとで、私は親の役割を演じている。

 

 

私は親の子供であることはとうに辞めてしまったけれど、私の子供の親であることは一生辞めないのだろうと思う。私の親が、まだ私の親でいるみたいに。

 

 

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

  • 作者:ジュンパ ラヒリ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/08/26
  • メディア: ペーパーバック
 

 

その名にちなんで (新潮クレスト・ブックス)

その名にちなんで (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 

 

勧酒

 友人が亡くなった。32歳だった。

 

 彼とは友人だったと思う。「だったと思う」というのは、最後に会ったのが1年前で、その前がさらに2年前。その前がさらに3年前くらいで、それほど頻繁に会っていなかったからだ。でも、友人かそうでないかは、どれくらいの頻度で会うかではないと思う。私にとっては、わざわざ会おうとして会うかどうかの方が大切だし、そういう意味では彼は紛れもなく友人だった。彼が同じ気持ちでいてくれたかは分からない。

 

 彼はとても酒が好きだった。しかし、あまり良い飲み方をしなかった。酔いつぶれて路上で寝ていることは日常茶飯事だったし、階段から転げ落ちたり、歯を欠かせたりしていた。

 一度、彼と共通の友人と3人で、ヒップホップのライブに行った。ヒップホップにもいろんなジャンルがあって、彼とは細かいところで趣味が合わなかったけど、ライブの圧力が全部を無理やり良い方向に持って行ってくれたような覚えがある。ともかく、3人とも異様に楽しくなってしまい、二次会と称して、千種区にある和民で飲み明かした。3人ともおかしなテンションで酒を煽って、ゲラゲラと笑いあった。朝日を迎えるころには、共通の友人は泡を吹いて倒れていたし、件の彼も潰れて、揺らしても叩いても動かなくなっていた。メチャクチャで、楽しくて、人生のハイライトみたいだった。でも、彼にとってはどうだったんだろうかと、今になって思う。あれが彼にとっての当たり前なのだとしたら。

 彼に近しい人ならば誰でも、彼はロクな死に方をしないと思ったはずだったし、事実そうなった。飲酒した後での、海での事故死だった。

 

 少しだけ小説も読んだ。同じく酒飲みで作家の中島らもの「今夜すべてのバーで」が好きだったと聞いた。私も彼の影響で一度読んだけど、酒飲みの気持ちは理解できなかった。中島らもは酒を飲んだ後、階段から転げ落ちて亡くなった。

 感受性が強く、いつもなにがしか考えていたし、彼自身の中で彼は哲学めいていた。頭も良かったし、まともな人生を歩めばそれなりの人物になっていたはずだった。だけど、彼はそうはならなかった。大学院を修了した後、彼をなんとかまともな仕事に就かせて、まともな人生を歩ませようとした人間はたくさんいたし、それだけの人望はあった。

 彼はいつも真に迫った語り方をするからこちらも真剣になるし、それでいてこちらの話もよく聞いてくれて、無碍に否定したりしないから、彼はとても話しやすかった。だから交友関係は広かったし、年上から年下まで本当にいろんな人間に好かれていた。それに、いつも無茶な生き方をしているから、見ていて楽しかった。

 

 だけど、それだけだった。

 

 彼は目標を見失っていたと思う。

 世の中の多くの人間にとって、目標や夢を持つことは難しい。飲食店を経営したいとか、研究者になって名を残したいだとか、具体的な夢を持つのは、それ自体が難しくて、誰しもできるわけではない。それを叶えるためのプロセスを組むことはもっと難しいし、実現することはさらに。

 多くの人は、なんとなく仕事に就いて、よく分からない課題を与えられて、分からないままに必死になってこなすしかない。だけどそのうちに、自分の成した仕事のうちの何かが周りから評価されるようになって、自分が何者かになったように思えるようになる。それを繰り返すうちにようやく、夢が見えてくるような気がする。

 だけど、きっと彼はそれを知ることはなかった。彼は何者かになりたかったのかもしれないけれど、だからといって、何かをやりたいような素振りが無かった。私には、彼が無茶な生き方をして楽しんでいる様子しか見ることができなかった。それがとても悔しいし、悲しい。

 亡くなった人の心の中を想像することは難しいし、野暮かもしれない。友人として、彼を救うことができなかったかとも考えるし、やはり難しかっただろうなとも思う。友人とは、それをしないから友人なんだろう。明日は久しぶりに飲もうかと思う。だけど、亡くなった人は、もう、喜びも悲しみもしない。

SELF CONTROL

 我が家ではシングルベッドを2つくっつけた上に、妻と子と僕と、3人で川の字になって寝る。眠っている娘の横で妻と話をして、ゲラゲラ笑って、いつの間にか眠る。たまに寝たふりをして突然起きて妻を驚かせて、ゲラゲラと笑う。朝起きて、仕事に行って、楽しかったり打ちのめされたりして、また帰って話して笑って眠る。
 大学生時代の友人たちとはだいぶ没交渉になってしまった。一番仲の良かった友人たちとも年に一度か二度、顔を合わせればいい方で、それ以外の人とはもしかしたらもう、一生会わないのかもしれない。当時は彼らと毎日のように遊んでいた。徹夜で麻雀をしてなか卯で牛丼を食い、飲めない酒を飲んでいた。それほど女の子と仲良くはならなかったけど、クネクネ動いて目立つのが好きだったから、顔見知りだけは多かったかもしれない。これが人生で最高に楽しい時間なんだと思っていて、大学院を卒業してそれが終わったときは喪失感があった。
 妻との会話の中身はほとんど子供のことで、寝る前に2人で話をするときもそればかりになる。今日は昼寝をしなかったから電池が切れるように寝た、今日はティッシュを散らかした、今日はリュックを背負って上機嫌だった。手持ちの写真を見せあって、アプリで交換して、また話をして笑って眠る。妻は僕を湯たんぽ代わりにして冷たい足を暖めようとして、寝入り端の僕は機嫌が悪くなる。

 どこかのサイトで、結婚にはメリットがない、という記事を読んだ。確かにそうだなあと思う部分と、そうでもないんじゃないかと思う部分、両方あった。誰にでも通用するような最大公約数の話題だけを挙げてしまえば、誰にでもどちらも当てはまるんじゃないかと思う。飯が美味しければ嬉しいし、子供が泣けば面倒だし、疲れたときに頑張ろうと思えるときもあれば、頑張れなくて喧嘩するときもある。それでも子供が新しい言葉を覚えただけで、悪い部分が全部無くなったりもする。無くならないときもある。
 でも、各個人が思い描く、結婚の良かったところ、悪かったところなんて、真実は家族の中にしかあり得ないし、外からは理解し得ないものばかりなんじゃないかと思う。僕の少ない経験上、コミュニケーションや会話は内輪でしか通じないような物事になればなるほど、面白くなる。家族の会話はそれの究極系みたいなもので、子供の口癖が夫婦間での符丁になるとか、端から見ればなんてことないやり取りが最高に楽しいことだったりするし、その逆もある。どうしたって他人に推し量ることは出来ない。