ニャヌュパ・ガイモ・ガイモ

ンドペソド・ンゴイ・ンゴイ

モーニン

 十年前の一月。私はドーハ経由の飛行機に乗り、チュニジアに向かっていた。トランジットのドバイやドーハを除けば、卒業旅行で行ったエジプト以来、二度目のイスラム圏だった。

 

 

 

 

 チュニジア北アフリカの先端部にある小さな国で、長靴みたいな形をしたイタリア半島のつま先でサッカーボールみたいなシチリア島を蹴ると、地中海の向こう側でちょうど当たるくらいの場所にある。

 この地にはかつて、カルタゴという世界史を習った者ならば誰もが知っている国が在った。カルタゴは紀元前三世紀から紀元前二世紀にかけて古代ローマとの三度の戦争(第一次〜第三次ポエニ戦争)の末に滅び、二度と草木の生えぬよう塩を撒かれ、蹂躪された。そのときカルタゴを支配していたのは今この地に住んでいるアラブ人ではなく、フェニキア人と呼ばれる、海運による交易を得意としていた民族である。フェニキア人の素性は歴史上謎に包まれていて、詳細は分かっていない。専門の方ならば色々と知っているのかも知れない。

 第二次ポエニ戦争において古代ローマを窮地に追い込んだのが、かの有名なハンニバルである。度々小説等の題材になり、そして、血の沸き立つような興奮を私達に与えてくれる。ローマ本土まで攻め入り、機動力を活かした包囲殲滅戦術で何度もローマを陥れたものの、最後にはスキピオに破れ、晩年、自害する。

 

 私がカルタゴハンニバルに出会ったのは塩野七生先生の「ローマ人の物語」で、旅行先をチュニジアに決めたのもこれがきっかけだった。

 チュニジアに行くよりもさらに遡ること一年前、大学院を修了した際に、友人達とトルコに行った。友人の一人が、イスタンブールの街中で見かけた朽ちた壁を興奮気味に眺めて、こう言った。

 

「三重壁だ!!!」

 

 彼は歴史が好きで、一瞥してそれが東ローマ帝国時代のコンスタンティノープルを囲っていた三重壁であることに気付いた。当時の私は不勉強で、そんなことには気が付かなかったし、感動することなんて出来なかった。しかしこのときが、自分の知っていること次第で目に映る景色が一変してしまう、ということに気が付くことが出来た瞬間だったように思う。だからというわけではないけれど、そんな体験をしてみたかったのかもしれない。大学院を修了した後、就職浪人をしていたものの、無事に就職先が決まった後だった。人生の踊り場みたいな時期に、歴史小説を読んで憧憬の高まった私は、自分の眼でカルタゴを見たくなっていた。

 

 

 2011年の一月。一連の出来事には様々な要因があって、それは起きるべくして起きたことだった。一人の若者が政治と行政に押し潰され、イスラムでは禁忌にも近いとされている焼身自殺をした。それがきっかけとなり、チュニジアの国内には大きなうねりが起きていた。

 そして、それを知らずに、私はその国に向かっていた。飛行機の中でアート・ブレイキーバージョンの「A night in Tunisia」を聴いていた。

 

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 チュニスの上空まで辿り着いた飛行機がゆっくりと高度を下げて着陸の体制に入る。心臓が締め付けられるような感覚になる。もう何度も飛行機に乗っているのに、この心地悪さには一向に慣れない。

 飛行機から降りると、他の国に入るときと同様に入国審査が行われる。海外旅行自体は何度か経験していたものの、一人旅は初めてだったので、とてもまごついてしまった。機内でたまたま隣の席に座っていたのがチュニジア人だったので、入国カードについては教えてもらいながらなんとか書くことが出来た。しかし、審査官から「何故ここに来たんだ?」「泊まるところはどこだ?」と聞かれたときには、全然、答えられなかった。何故ここに来たかと問われれば、カルタゴ古代ローマの遺構を見に来たんだけれど、それを答えられるだけの語学力が無かった。泊まるところも決めていなかったし、旅程も殆ど決まっていなかった。とにかく何も決まっていなかったので、言葉の解らない人のふりをした。いや、事実、言葉の解らない人だったので言葉の解らない態度を取っていたら、業を煮やした審査官がそのまま入国審査を通してくれた。私は一人、チュニジアの地に降り立った。

 

 一部の人にしか理解してもらえない気がするけれど、入国審査を終えて、空港の港内に解き放たれたとき、私はとても不安になった。あらかじめ旅程を決めていても決めていなくても、知らない土地で知らない言葉に囲まれて一人でいるとたまらなく不安になる。わくわくしてたまらない人もいるんだろうけど、私は不安でしかなかったし、多分自分は海外で一人旅するのには向いていなかったんだろう。しかし、誰も助けてくれやしないので、このまま遊びに出かけるしかない。

 ともかく、港内を散策し、両替を終えると、私はとりあえずチュニス市街地を目指し、空港からチュニスマリン駅に向かうバスに乗った。バスを降りるとき、お金を払い忘れて笑われた(という記録が残っているがあまり覚えていない)。

 

 

 チュニスマリン駅付近の路上にあるファストフード屋で「キョフテジ」のサンドイッチを食べた(キョフテジはチュニジアの一般的な家庭料理の一つで普通は肉と野菜の煮込み料理を指すらしい。記録には「キョフテジのサンドイッチを食べた」と書いてあるので、恐らく、煮込んだ具を挟んだサンドイッチを食べたんだろう)。1.2ディナール(約72円)で、安くて美味しかった。

 チュニスマリン駅からメトロに乗りバブ・アリウア駅へ向かう。メトロといっても、チュニジアにおけるメトロとは地下鉄ではなく路面電車である。調べたところ、チュニジア国内でメトロがあるのは北部にあるチュニスと、中部にあるスースのみらしい。一度行き先を間違えて切符を購入してしまったが、払い戻しのやり取りが出来る自信が無かったので諦めて買い直した。

 

 

 バブ・アリウア駅は高速バスの発着するターミナル駅である。切符売場へ行き、深夜バスの切符を買う。チュニジア北部に位置するチュニスから一気に南下して、サハラ砂漠の際にあるドゥーズに向かうことにした。この時点で私の計画は以下の通りである。もちろん、この計画は早々に崩れるんだけど。

 

 ①初日にチュニスを散策。

 ②深夜バスで南部のドゥーズへ。

 ③現地ツアーを利用してサハラ砂漠に宿泊

 ④北部に戻りつつローマ時代の遺構やイスラム建築を見る

 ⑤カルタゴ時代の遺跡のあるケルクアンへ

 ⑥チュニス経由でチュニジア北部の沿岸にあるリゾート地シディ・ブ・サイドに宿泊しつつ、カルタゴ時代の軍港などを見る。ローマ時代の水道橋も見る。

 

絵に描いた餅

 

 

 深夜バスの出発まではまだまだ時間があったので、バブ・アリウア駅から一度徒歩でチュニスの中心地(Tunis centre)へ向かった。町中を散策するためである。道中、道に迷いつつも何とかメインストリートまで着く。大聖堂や門などを見る。

その後は一路メディナを目指した。メディナとは、イスラム圏によくある要塞化した都市機構で、壁で囲まれ迷路みたいに入り組んだ中に商店が並んだり、モスクがあったりする。

Medina of Tunis - Wikipedia

チュニジアの中心的な都市には、それぞれの街のメディナがある(あった気がする)。私が訪ねたとき、チュニスメディナの中はとても閑散としていて、首都の中心部にあるとは到底思えないくらいだった。しばらくして、その日がイスラムにとっての休日であることに気づく。よく下調べしてから旅程を組むべきだったが、後の祭りである。少数ながら営業している商店で土産なんかを物色したり、店主にからかわれたりして、メディナの中を散歩した。

 休日で商店巡りが思ったように出来なかったため、時間が余ってしまった。道中、小学生くらいの年頃の女の子に声をかけられた。曰く、韓国のアイドルが好きらしい。私は日本人だよ、と何度言っても、韓国のアイドルが好きだと言ってくる。まあ、そういうものか、と思う。そして、韓国のポップカルチャーの強さを感じた。

 徒歩でバルセロナ広場へ向かった。バルセロナ広場は日が暮れても賑やかで、多くの人が屯していて少し怖い。店名がネオンで縁取られた飲食店で夕食を取った。鶏肉を焼いたものとパン。鶏肉はパサついてあまり美味しくなかったが、付け合わせの野菜とポテトはまあまあ美味しかった。話しかけられたり、写真を撮ってくれと言われた。深夜バスに乗るためにメトロに乗り、再びバブ・アリウア駅へ。

 出発予定時刻よりも三時間も早く到着してしまったけれど、ここまで歩き詰めだったので、ゆっくりとバスを待つことにした。一人旅では話す相手がいないため、自然と早足になるし、観光地でもそれほど長居が出来ない。だから、スムーズに進めば進むほど、旅程が前倒しになったりする。特に今回のようにしっかりとしたツアーではない場合、旅程に余裕を持たせるため、なおさらであった。

 バスを待つ間、四十代くらいの男性に声をかけられた。ヨゼフ・ケビリという名前らしい。ドゥーズまで行ってサハラ砂漠に泊まるツアーに参加する予定だと言ったところ、「俺はドゥーズから程近い、ザフランでやってるもっと良いツアーを知っている。予約してやる」と誘われた。疑いつつもお願いすると、その場で予約の電話をしてくれた。10ディナール要求された。何かあったら電話してくれ、と電話番号を教えてくれたが、チュニジアで電話する方法を知らないし、何より電話で彼と意思疎通出来る自信は無かった。

 そうこうしている間にドゥーズ行きの高速バスが到着した。バスに乗り、目を閉じる。自分が異国で深夜バスに乗っているなんて、信じられなかった。多分本当の私は無鉄砲で無計画で、それ故、いろんな人から守られてきたんだろう。自分で責任を取らなければならない歳になってそれに気が付く。

 

ザフランは予定していたドゥーズから車で十五分程で行ける場所にある。

 

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 ドゥーズに着いたのは翌朝の午前六時で、辺りはまだ暗かった。軽く街を散策したものの、店なんてほとんど開いていなかった。かろうじて一軒カフェが開いていたので、暖を取ろうと暖かいカフェオレを注文した。異国で特別なことをしているようで、それはとても心地良かった。

 明るんできたところで再び散策に向かう。サハラ砂漠の際にある街ということもあって、地面は黄色く、乾いていて硬い。一時間ほど歩くだけで砂漠に着くことが出来て、朝日と砂漠がとても綺麗だった。

 

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 また少し歩くと、小学生くらいの年頃の男の子がラクダの世話をしているのを見かけた。乗ってみるかと聞かれたので乗ってみた。ラクダは人が乗るときには座ってくれるので乗りやすいのだが、その後立ち上がる際にガクンガクンと揺れるのでそれが少し怖い。少年に2ディナール支払い、再び一時間歩いてドゥーズへ戻った。バスステーション近くのピザ店で朝食にピザを食べた。

 午前十時。ルアージュに乗って、サハラ宿泊ツアーがやっているはずのザフランへ向かう。騙されていなければヨゼフ・ケビリが予約してくれているはずだ。

 ルアージュとは、5〜6人定員くらいの車に順に客が乗り、満員になれば出発する仕組みになっている「乗り合いタクシー」である。運転手は大まかな行き先を掲げ客を募り、客は車内でそれぞれ途中下車の位置を指定していく。満車にならなければ出発しないため中々時間が読みづらいが、空いた席の分まで料金を負担すればすぐに出発してもらうことも可能である。

 途中、ルアージュが事故に遭いかけるも、何とか無事にザフランに着いた。この街も、黄色く、硬い地面が一面に広がっている。「地球の歩き方」を片手に十五分程歩くと、ツアーを主催する「ホテル・ザフラン」に着いた。予約されていた。昼食代と併せ、45ディナールを支払い、夜が来るまで部屋を使わせてもらう。約3日ぶりにベッドに横になる。

 

 部屋前に用意してもらったテラス席でランチを頂く。パン、玉子焼き、チキン(の皮?)、ポテト、チュニジアンサラダ、オレンジ、ファンタ。昼食代は10ディナールで、少し割高に感じた。

 午後四時。ツアーというくらいだから何人も参加するかと思ったら参加者は私一人だけだった。ツアーガイドのセフと話をしながら、ラクダに乗って、サハラ砂漠のオアシスに隣接する宿泊サイトへ向かう。ラクダの名前はアリババというらしい。ラクダは十分も乗れば飽きることが解った。夕日がとても綺麗だった。

 

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 日が落ちると、セフが火を焚いてくれた。夕食はマカロニの煮込み。ヤギか羊の肉が少し入っていて美味しかった。「チュニジアの女はセックスが好きだね」とか言っていた。こいつは何を言っているんだと思った。あと、「セフ」は「刀」という意味があるとか。その後も少し話をした後、火が消えてきたので寝ることにした。大きなテント内にベッドがあって、毛布が五枚位用意してあった。くるまって寝たが、それでも砂漠の夜は寒かった。

 

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 翌朝、再びラクダに乗って街に戻る。朝日が綺麗だった。セフは「パーフェクト!」と何度も言った。私もそう思った。

 ホテル・ザフランに着くとツアーは終了。ホテル前をバスが通るとのことなので、それに乗って、「エル・ジェム」に行くことにした。エル・ジェムとは、古代ローマ期に建てられたスタジアムが残る街である。カルタゴ滅亡後、この地は古代ローマの支配化に置かれるようになったので、古代ローマ期の遺跡も多く残っている。

 しかし、中々バスが来ない。ここから、少しずつ、予定が狂っていく。埒が明かないので、歩いてザフラン中心部まで向かおうとした道中、車に乗ったセフと再会した。幸運にも車に乗せてもらえることになり、無事にザフラン中心部まで戻ってきた。

 ドゥーズに戻るルアージュを待つ間に、ハンサムな男性に声をかけられた。BLEACHNARUTOが好きだと言っていた。凄いじゃないか、ジャパニーズ・マンガ。あと、PSP GOが欲しいと言っていた。

 ドゥーズに到着して、エル・ジェムに向かうための交通手段を再び探ったところ、直接エル・ジェムに向かうルアージュは無いことが解ったので、ひとまず中継地点となるガベス行きに乗ることにした。韓国人らしき若者三人組が同乗した。彼らはトズールという街に行くらしい。一時間待ってようやく出発。ガベスに着いたのは午後2時半だった。

 

 

 

 午後二時半。ここからさらに北上するルアージュに乗り換え、一度スースに行くことにした。しかし、ルアージュが定員に満たず、中々出発しない。結果的に出発するまで2時間を浪費してしまう。その間に、三人の少年に話しかけられた。

 

 ① 少年A

 ピタパンらしき物を売る少年。1ディナールでそこそこ美味しかった。私が持っているカメラや携帯電話にとても関心がある様子だった。

 ② 少年B

 コーランを売る少年。申し訳ない。要らないです。

 ③ 少年C

 大学院を修了し、先生になるらしい。英語がとても達者だった。チュニジアは旧フランス領なので、英語を話せる人は少なく、看板やレストランなメニューに書いてある第2外国語もフランス語であることが多い。ルアージュを選択したのは間違いだと言われた。全く、そのとおりだと思った。

 

 午後四時半。ようやくルアージュが動いた。ここからさらにルアージュに乗ること四時間半。一緒に乗り合わせた男性がとても気さくで、たくさん話しかけてくれた。

 

 

 

 

 午後九時。ようやくスースに到着。露店でサンドイッチを買って食べた。1ディナール。安くて、美味しかった。夜中だったけど何とかホテルを見つけて、泊まることが出来た。20米ドル。シャワーは出たが、勢いが無かった。

 

 午前五時起床。暗かったが、バスステーションまで向かうことにした。昼の様子を知らない街だったので少し不安になり、タクシーを利用した。六時になればエル・ジェムに向かうバスがある、と聞いていたんだけれど、影も形もなく、仕方なく、またルアージュに乗ることになった。三十分待ってもやっぱり中々定員にならなかったので、諦めて空いた席の分まで料金を支払い、すぐに出発してもらうことにした。

 

 

 

 

 七時半、エル・ジェム着。初めて見る古代ローマのスタジアムはとても大きく、荘厳に見えた。いつかイタリアに、ローマに行きたいと思った。リビアやスペインやフランスやイギリスにも行きたいし、モロッコにも行きたい。

 

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 スースに戻ってメディナを見たいと思った。しかし、バスを探したもののどうにも見つからない。仕方がないので駅まで行き、電車に乗ることにした。聞くと、スースに行く電車があるらしく、少し安心した。切符を買って、一路スースへ向かう。

 電車を待っている間、十七歳の少年(とその母親)に声をかけられる。フセインという名前らしい。「サダム・フセインと同じ名前だね」と言うと角が立つかもしれないので、「バラクフセインオバマと同じだね」と言った。とても体が大きく、話を聞くとどうやら柔道の経験があるらしかった。今は膝を痛めてしまったため、ボディビルディングやアームレスリングをしているらしい。医者を目指しているらしく、「あなたの英語は下手だね」と言ってきた。私もそう思う。そして、たくさんお菓子をくれた。「それにしても大変なときに来たね」と言っていたけど、よく意味が解らなかったので、曖昧に同意した。後でこの言葉の意味を知った。

 電車は一度ローカル駅で停車した。ボーッとしていると、電車は再び出発した。フセインに「スースに行くんだ」と伝えたところ、どうやら先程のローカル駅で降りなければいけなかったらしいことを教えてくれた。フセインの母親が大急ぎで電車の運転士に話をしてくれて、運転士は電車を減速させてくれた。駅でもないところで飛び降りたのだけど、止まりかけといえどもそれなりにスピードが出ていたので、少し怖かった。運転士に電車を止めるようお願いしてくれる親切さも、お願いすれば減速してくれた突飛さも、異国の地のどこだか知らない場所で電車から飛び降りる経験も、全部想定外だった。本来の意味で右も左も分からない状態だったが、歩いて大通りまで出ると、幸運にもルアージュを見つけることが出来た。これでようやくスースに戻れる。

 

 

 

 

 午前十一時。スースのルアージュステーション。メディナを見たかったが、時間の都合で諦めて、ケリビアに向かうことにした。ケリビアからはケルクアンに行くことが出来る。ケルクアンには古代カルタゴの遺構があるからだ。しかし、スースからケリビアに直接行くルアージュが無いため、一度ナブールに向かう。今回のルアージュはすぐに定員となり、出発した。

 

 

 

 

 午後一時。ナブール着。 ナブールは陶器の製造で有名な街のようで、街中にはかわいい陶器を売る商店がたくさんあった。いくつか購入し、ケリビア行きのバスに乗った。

 

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帰国後こんなふうに飾っていた。

 

 午後三時。ケリビアに着いたらすぐにタクシーに乗り、ケルクアンに向かった。悠長にルアージュの出発を待っていたら、夜になってしまう。そうなるとカルタゴの遺跡を見られない。

午後三時十五分。案外早く、ケルクアンに到着した。少しのギャラリーと、ほとんど朽ち果てている古代フェニキア人の遺跡を見た。地中海を背景にそれらを見た。来てよかったと思った。

 見物を終えて、歩いて街に向かっていたところ、後ろからトラックが走ってきた。現地の人で、どうやら大通りまで結構歩くから荷台に乗っていけよ!ということらしい。有り難く乗せてもらった。大通りで降ろしてもらい、お礼を告げて、お別れをした。

 再び歩いていると、今度は後ろからタクシーがやってきたので、手を上げて呼び止める。既に客が乗っていて、同乗することになった。ケルクアンの遺跡ですれ違っていた、リビア人男性と日本人女性のカップルだった。日本人女性の方はツアーガイドを生業にしているらしい。久しぶりに日本語を発することが出来た。自分の考えていることを余さず表現出来ることがこんなにも楽しいとは思わなかった。

 

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 午後四時半。バスに乗って首都チュニスへ向かう。飽きるほどラクダに乗ったり、ルアージュで待ちぼうけたり、電車から飛び降りたりしたけれど、ようやくスタート地点まで戻ることが出来る。そう思った。

 しばらくすると、バスが急停車した。運転手が降りろ降りろと言っているようだが、アラビア語なので理解が出来ない。近くにいた女性に話しかけるが、英語が解らないようで意思疎通が叶わなかった。とにかく降りなければいけないようなのでひとまずといった感じで降りたところ、バスの扉を閉められてしまい、再び乗ることが出来なくなってしまった。また、右も左も分からなくなってしまった。しかも今度は、そうなった理由さえ解らなかった。

 ここで、たまたま同じバスに乗っていた、髭を蓄えた壮年男性に英語で話しかけられた。モハメドという名前らしい。モハメドが言うには、チュニス市内で暴動が起きており、市内へのバスの乗り入れが出来なくなっているようだ。ここでようやく、午前中、電車の中でフセイン少年の言っていた「大変なときに来たね」の意味が解った。午前中の時点で既に何かが起きていたのに、私はのん気に地中海を眺めていたらしかった。

 「街に戻るのは危険だから、うちに泊まると良い」と、モハメドが言った。

 親切に声をかけてくれた彼には大変申し訳ないが、彼のことを完全には信頼出来ないので断ろうとした。しかし、それでも彼は、危ないから泊まれと誘ってくる。いよいよ怪しく思えてしまったが、今いる場所がどこなのかすらも解らない状況でホテルが見つかる保証も無かったし、たとえホテルが見つかったとしても、この騒動の中で泊まることが可能かすら解らない。暴動が起きている街で泊まる場所すら見つからなかったら、それこそ危険なのではないか。悩んだ末、私はモハメドの家に泊まらせてもらうことにした。貴重品は常に簡単に取り出せない場所にしまっていたが、念の為、懐のさらに深い場所に隠した。

 

 ルアージュに乗り、チュニス郊外の「ザフラ」という街にあるモハメドの家に着いた。少し茶色くくすんだ、白い、小さな四角い家だった。

 モハメドの家には彼の友人の女性、ファティマもいた。彼女の家はチュニスの中心部にあるが、暴動のせいで戻れなくなったため、モハメドの家に泊まることになったらしい。モハメドは犬を飼っていたので、この日は三人と一匹で一夜を明かすことになった。外へ出て食事を取ろうとしたが、暴動の影響で店が軒並み閉まっていたので、チキンを買い、モハメドの家で食べることにした。

 購入したチキンと、クスクスの入ったスープ、オレンジを頂いた。食事しながら、話をした。モハメドは、今般の暴動は仕事の少なさと食料品の高騰、それに大統領ベン・アリの独裁が原因だと言っていた。彼は何度も「He is ディクタトール!」と言った。「地球の歩き方」には、ベン・アリ大統領がチュニジア民主化に貢献したようなことが書いてあったが、少なくともこの時点での国民にとっての認識はそうではなかったんだろう。彼は友人たちとFacebookでやり取りしていた。暴動の様子が動画でシェアされていた。多くの人が、チュニジアの国旗をアイコンにしていた。イスラムを象徴する、月と星の国旗。

 見知らぬ東洋人がいるせいか、モハメドの犬は終始興奮していて、私の足にマウンティングを繰り返してきた。

 

 翌朝、午前七時に起床。モハメドと一緒に、最寄りの駅に向かった。

 泥みたいな見た目の、その名も「ドロワ」という食事を買った。1ディナールで、甘くて、温かかった。何かあったら電話してくれと、電話番号を知らせてくれた。最初から最後まで、彼は優しかった。チュニジアで電話する手段が私には無かったけれど。

 

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 午前八時。チュニス市街地に到着する。以外にも街中では騒動などは起きていない様子だった。歩いている人達も同様に、何事も無かったかのように過ごしているように思われた。本来ならこのタイミングで、大使館に連絡するべきだったんだろうけど、全くそれを思いつかず、そのまま観光を続行した。この危機感の無さは、恐らく、責任感の無さや軽薄さが原因なんだろうと思う。当時の私は、自分に対してすら責任を取ろうとしなかった。自分の欠点だと、今でははっきり解る。

 メトロでチュニスマリン駅に行き、そこからTGMという電車でカルタゴに向かう。

 カルタゴに着くと、まずはカルタゴ美術館に行った。古代ローマ時代の遺跡に交じって、カルタゴ時代のものも残っていた。カルタゴ美術館のある場所は、ビュルサの丘と呼ばれており、古代カルタゴの時期には城塞が築かれていた。

 

ビュルサ - Wikipedia

 

そのまま歩いて、ローマ時代の遺跡である「ローマ劇場」へ行った。ここは現在でもコンサート等に使われることもあるようで、そのときはラップミュージシャンのポスターが多数貼られていた。

 

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RAP TUNISIEN

 

 さらに少し歩いて、古代ローマ時代の「ローマ人の住居」という場所へ。列柱回廊が綺麗で、とてもローマらしかった。

 

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列柱回廊

 

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モザイク絵

 

 次に、「アントニヌス浴場」に向かった。

 アントニヌスとは、帝政ローマにおける五賢帝の一人、アントニヌス・ピウスのことである。彼の治世の間に建設されたので「アントニヌス浴場」という。とても大きく、広く、開放的だった。

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アントニヌス浴場 - Wikipedia

 

 この後、カルタゴ港へ行った。道中、「スキピオン・カフェ」という、いかにもな名前のカフェがあった。

 

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SCIPION CAFE

 

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カルタゴ

 

 道中、カルティエ・マゴ、クレティアン博物館、トフェなど、いくつかの場所を訪問した。その後、サランボ駅まであるき、再びTGMに乗って、最後の宿泊地、シディ・ブ・サイドへ。

 

シディ・ブ・サイドは夏場には欧州からの観光客のリゾートとして利用されるらしく、白地にチュニジアンブルーで街並みが統一されており、とても美しかった。他の街と比較してゴミも少ない。

 

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 昼食にピザを食べた。5ディナールで少し高い。シディ・ブ・サイドは高低差の激しい街で坂や階段が多く、少し移動するだけでもとても疲れた。しかし、高台から望む地中海は、きらきらしていて綺麗だった。

 最後の宿泊だけは奮発して、高級ホテルである「ダール・サイド」にした。一泊350ディナールだった。その後、街中を散策して、コーヒーを飲んだり、バンベローニという揚げ菓子を食べたりした。その後、ホテルで泥のように眠った。

 

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 翌朝、午前四時に起床。帰国の準備をしながら、TVなどを見て時間を潰した。

 七時にホテルの朝食を頂き、そのままチェックアウトした。タクシーに乗って、空港へ向かった。

 午後一時半。予定より少し遅れたが、飛行機は無事に離陸した。後で聞いた話だが、翌日には空港は閉鎖されてしまったらしい。また、機内でたまたま隣に座った女性は、ツアーでのチュニジア旅行だったが、急遽旅程が全てキャンセルとなり、緊急帰国となったとのことだった。

 無事に家に着いたのが何時だったかは忘れてしまった。家に着き、母の顔を見たらとても安心したことを覚えている。

 

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 10年経って改めて、旅行記を書いた。当時、旅行しながら取っていた記録を読み返しながら書き下した。

 書き下してみて、当時の自分にとても腹が立った。記録の最後の方に、こう綴ってある。

 

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 危機的な状況に陥って、たくさんの人に助けられた。チュニジアの人にも、偶然出会った日本人にも。にも関わらず、当時の自分は大した危機感も持たず、のんきに観光を続けて、何か起こったときのためのケアもせず、高いホテルに泊まって、観光地の風景を楽しんでいた。

 とても腹立たしくて、記事の後半は、そのとき考えたことなどを思い出してまともに書くことが出来なかった。なんだか美しい思い出にしてしまっていた自分を恥じるばかりだ。

 チュニジアの人は本当に優しかった。偶然かもしれないし、偶然じゃなくて、そういう人が本当に多いのかもしれないし、それは解らない。少なくとも私が出会った人は全員親切で、彼らがいなければ私は今頃ここにいなかったかもしれない。だからこそ、当時の自分が、危機感の無さが、自分に対する無責任さが恥ずかしい。

 書き始めるまでは、当時の美しい思い出を形に残そうという趣旨だったし、途中まではそのつもりで書いたけど、途中から腹立たしくなったので、こういう終わり方にしようと思う。

 この国にもう一度行きたい。美しい国に恩返しが出来たら良いと思っている。今度は、私が誰かに優しくする番で、そして、自分にも恥ずかしくないようにしたい。ああ、こんな最悪な結論にするつもりはなかったのに。