ニャヌュパ・ガイモ・ガイモ

ンドペソド・ンゴイ・ンゴイ

サードステージ

 私の一番古い記憶は三歳の頃で、祖母の家で自身の誕生日祝いをしてもらっている場面だ。その頃の父は三十五歳で、ちょうど今の自分と同じ年齢だった。

 記憶の中にある父の姿に今の自分を重ねると、自分のことをとても幼く感じる。子供の私にとって、父は巨大な異物だったし、初めから既に「父」で「大人」だった。だからとても、「父」で「大人」になる前のその人のことは想像出来なかった。同じように、母は初めからずっと母だし、祖父母はずっと祖父母だった。でも、三十五歳の今の自分自身は三歳の頃の自分を縦に引き伸ばした物でしかなくて、いつまで経っても、その役に成り切れないでいる。父にも大人にも。

 

 

 私は父のことが嫌いだった。

 私はママっ子でいつも母にくっついていたし、父は父であまり子煩悩というわけでもなかった。記憶の中で父は、横臥してマールボロを吹かし、つまらない野球中継ばかりを見ていた。パチンコで散財して、沢山残業して、家の中でうるさくするとすぐに怒った。思い出すのはそんな、嫌な記憶ばかりだ。煙草の煙が充満する居間が嫌いで、いつも他の部屋に逃げていた。煙草も巨人もパチンコも大嫌いだった。観ている途中のアニメが、帰ってきた父によって巨人戦に切り替えられてしまうくらいなら、もっと遅く帰ってきてくれて構わないと思っていた。父に愛されていると思えたことは無かった。

 

 

 三歳になった二女にせがまれて、彼女の両脇に手を差し込んで抱き上げる。随分と成長したものだと感心する。同じ人間とは思えないくらいか細く産まれてきたのに、今や片腕では支えきれないくらいに大きくなり、一人前に喋るようになった。もう半年もすると、さらに人らしく喋るようになる。三歳の頃の私にとっての父が、この娘にとっての私であった。

 父のようになりたくなくて、父に反抗するかのように子供に愛を示しているつもりだった。だか、端々で父に似てくる自分に気付く。長女と二女を公園に連れ出し、遊具で遊ばせていても、素直に楽しめない自分がいる。子供にバレエを習わせても、あまり興味が持てない。家事に時間を取られているときに子供が言うことを聞かないと苛立ってしまう。

 

体も、頬の弛みも、疲れも、焦燥も、自尊心の高さも、みんな似てしまった。出口はまだ見えない。きっと誰もがそうなんだと、自分に言い聞かせる。父も同じようなことを考えていただろうかと、想像してみる。